ひねもすのらりくらりかな

福岡在住です。 すろーなペースで食べ物,写真などについて書いてます。

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2015.08.20 Thu » 夏祭りの予告と博多のすごさ

中洲の東端にある川端飢人地蔵尊の施餓鬼供養が近づいてきました。
20150820jizouson.jpg
例年、8月23日、24日の模様ですね。

いつものように文字起こしをしておくと
20150820jizousonsetsumei.jpg

飢人地蔵尊由来

飢人地蔵尊は上川端町と東中洲の一角とをつなぐ水車橋畔に祀られている。
享保十七、八、九年(西暦1732~1734年)に亘る所謂「享保の大飢饉」は
二百六十年の今日まで幾多の惨話悲話を残している。
当時飢饉のために食料がなくたおれた人々の遺骸を集めて葬り後人が
石の地蔵尊一基をきざんで其の場所に建て毎年八月二十三、四両日
上川端町一、二、三の組が施主となって盛大な施餓鬼供養を行っている。

享保の大飢饉は徳川十五代の幕政中「享保の改革」とて良政を謳われた
「米将軍」即ち八代将軍徳川吉宗の治政中に勃発した。
開闢以来といわれた筑前の大凶変でもあった。
この大凶変の主因は虫害、干害、水害、疾害の総攻撃で、此の世ながらの
地獄相を出現したものである。飢死者の数は全国で二百六十四万五千人に及んだ。
実に死屍累々たる惨状は目をおおうばかりであった。筑前で九万六千人の
餓死者、病死者を出したが、筑前第一の都会は方はどんな災害をこうむったか……。

当時博多の人口 男 一万千五十四人 女八千四百六十二人

の約三分の一の六千人が死亡したという驚くべき数字が、
この大飢饉の惨状を物語っている。その記念物としては、
飢人地蔵尊を唯一のものとする。享保以来二百五,六十年間
上川端通地蔵組合の者により、施餓鬼供養をつづけて来たもので
其の霊験の新たかな事は年中参拝者の奉じるお灯明の火と
線香の煙が絶ゆる間がないのであります。

施主 上川端通地蔵組合

で、これを読んで「こんな大変だったときに山笠はどうだったのだろう?
と疑問に思って「享保の大飢饉+山笠」で検索してみると
博多部の歴史にかんするすごい情報量でいつも参考にさせていただいている
「博多浪漫紀行」さまのページの「山笠略史」ページにたどりついて

************引用はじまり************
享保17年:享保の大飢饉 今年、国中田方虫にて飢饉死する者多し。
現在も中洲二丁目博多川河畔で供養を続けている。
享保18年:1733年 前年より打ち続き損亡今年一統疫病流行死亡者多し。
四民難儀甚し、今年山笠小人形となれリ。
************引用おしまい************


ということで、「小人形」となったけど続けられたわけなんですねと。

基本、山笠のはじまり自体が「聖一国師が博多津中の人々の担ぐ
施餓鬼棚に乗って甘露水をまいて疫病退散を祈願(引用)」
だったわけで、
それを考えると飢饉に打ち勝つためにこそ山笠をしたのかもしれませんが、
なんというか博多の人々のすごいものを感じて圧倒させられました。
20150820ishidatami.jpg

そんな方々が歩まれた道の上を自分も歩いているんだなあ…
などと思うと妙にありがたく思えるものだなあと。

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